戦前の国産三輪自動車誕生期
日本における3輪車の普及は1914年(大正3)年に、エンジンと駆動輪を一体型にしたアメリカ・ミルウオーキーの自動車部品メーカーA.O.スミス社製のヒット作「スミスモーターホィール」によって始まった。
東京銀座2丁目のアンドリウス・ジョージ商会が輸入、自転車の後側部に並べて駆動カを得るという「取付けエンジン」てあった。
これを1917年に大阪・西区の中央貿易が大量輸入して、フロントカー型の荷物運搬用自転車に装着し、名称も「自動下駄」として発売した。また同様のものを大阪の中島商会が「ヤマータ号」として発売したともいわれるが、どちらが先かは定かでない。いずれにしても商人の街である大阪で流行し、幸いにも無免許で運転できたことから、三輪車が普及するきっかけを生んだのである。
三樹書房刊小関和夫著「国産三輪自動車の記録」より引用
ヤマータ号自動三輪車製作所について
前段のとおり、中島商会が日本で自動三輪車を製作したのは1番または2番目といわれている。自動三輪車の先駆者として出発した中島商会(後に中島自動車工業株式会社と改称)は1918年(大正7年)に創業したが、1936年(昭和11年)の自動三輪車カタログには次のように記述している。
「ヤマータ号自動三輪車は本邦に於ける最古の経歴と多年の製作経験とを有する中島自動車工業株式会社の製作車にして弊社は創業以来実に拾有八年当時夢想だに及ばざりし昔時より小型自動三輪車の製作に着手し汎ゆる全世界の原動機を取付け是を完成するに至り年と共に改造に次ぐ改良を重ね時勢に順応したる優秀車を製作し今や本邦各地は無論海外までも進出し高級車として其真価を賞賛せられつゝあり」
中島自動車を母体として発足
このようにして三輪自動車の製造販売を続けてきた中島自動車工業ですが、戦時色の強くなる中、大正時代より三輪自動車の製造販売で一代を築いた中島氏の後を受けて、木越氏は自動車部品の販売会社として昭和15年6月「ナカジマヤ商会」を個人創業しました。
戦争が激化するとともに、木越氏も出征し会社は休業状態になりました。戦争中の中断を経て、木越先代社長の復員とともに戦後再開し、昭和25年2月15日に「株式会社ナカジマヤ商会」に改めました。
昭和38年5月には社名を「ナカジマ部品株式会社」と改め、以来50年間にわたり
多くのお客様のご愛顧と、永年の先輩功労者諸兄のご尽力と、また金融関係をはじめ仕入先その他幾多の関係各位のご支援により、困難を乗り越え危機をきりぬけて今日まで事業を継続発展させ、頑張ってくることが出来ました。
昭和44年2月には、大東市に大東支店を開設し、事業拡大の礎をつくりました。
昭和46年2月には、貿易部を新設し、海外進出を図りました。以降昭和52年5月には摂津市一津屋に摂津営業所を、昭和55年4月には旭区に旭営業所(後に守口市へ移転し現:守口営業所となる)を開設、昭和57年5月には摂津市鳥飼上に北大阪営業所
を開設し、さらなる事業の拡大を図りました。
昭和58年6月に増資し、資本金4560万円となりました。
平成元年10月には旭営業所を、守口市へ移転し、守口営業所に改称しました。
平成11年6月には吹田市に、江坂営業所(後の豊中営業所)を開設し現在に至っています。